
子供を産むことは悪である。これが反出生主義(はんしゅっしょうしゅぎ)と呼ばれる考え方です。
毎晩寝る前に「この世界に生まれてきて良かったー」と考える人は中々いませんので、誰でも多少は納得できる考えでしょう。
反出生主義者は無責任に子供を産む人に対する怒りを持っているかもしれない、しかし大半の人は好きで子供を産んだわけではない。そういった話をします。
私達はなんでも自分の意思で選んでいるわけではない、むしろ周囲の人間の期待(社会)によって行動を決めることのほうが多いのです。
大昔は子供は労働力だった
大昔では子供は労働力でした。乳幼児の死亡率は今よりずっと高かったわけですから、それはもう過酷な世界だったわけです。
その世界ではたくさん産むほど得で、産まないと生活できなくなる。なのでその時代の人たちには子供を産むなとは言いにくい。
1965年までは女性ひとりあたり5人産んでいました。
FACTFULNESS(ファクトフルネス)10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣 108Pの図より引用
今でも貧しい国では労働力を期待して子供を産みます。
結婚しているほうが人間として優れている社会
今でもそういった風潮はハッキリとあるのですが、一昔前は今と比べ物にならないくらい強かった。社会全体の結婚圧力や出産圧力があまりにも強く、独身=犯罪者みたいな扱いを受けていたそうです。
「結婚しているほうが偉い」ではなく、「独身は恥」という風潮が当たり前のようにあった。
自分が人格的に相当問題があると思われながら生きていくのは、辛いのではないでしょうか?
人間は面子を保てないのが死ぬほど辛い
人は内面よりも社会と関わる表層の部分が大事であり、人と接している時の自己イメージ(自分の役柄)を社会学ではフェイスといいます。
アイデンティティーよりもフェイス
どういったキャラクターで周囲の人間と接するのか=フェイスが重要になるのですが、独身=異常者と認定されました。
つまりその時代の人のフェイスは、独身であるという事実だけで壊れていました。
ではまっとうな人間として扱われるためには、どうしたら良いでしょうか?
結婚して子供を産んで初めてまともな人間になれる
人の親でもまともじゃない人は珍しくありませんが、結婚して子供を産めば居心地の悪さは解消されました。
後ろ暗さが解消された結果、より社会に溶け込みやすくなります。
これこそが反出生主義者の大半が、インチキ臭いと思っているポイントの1つになります。
自分達の都合で産んだわけであり、産まれて来る子供のためを思って産んだわけではないと。特別に何か学んだ人でなくとも、この事実になんとなく気づいてしまう。
なのでライ麦畑の主人公のように怒ってしまいます。
子供は自分達の面子(フェイス)を守るために産む
新婚の夫婦がいたとして、まだ産まれてない自分たちの子供の事を考えるとしましょう。時代は現代ではなく100年くらい前とします。
1はちょっと狂っているような気がします。祖父が柳井正や孫正義でもないんだから、そんなに前向きに考えないでくれよと。
2はとても人間らしい。あまり自己欺瞞がない考え方なので「それくらいなら許してやるか」と思う人も多いでしょう。
3は少し清すぎる感じがします。「自分は産まれたくないですけど、それでも産んでおいたほうが良いんじゃないですか?」と、反出生主義者でも勧めてしまいそうです。そういう心の優しい人間が周囲から異常者として扱われるのは、間違っていると思うからです。
子供を産む行為が道徳的に悪だったとしても、結局は結婚して子供を産むのが無難な選択肢でした。
反出生主義は近代的な考え方
大半の人間は社会からの圧力により、なかば強制的に産んでいる。馴染みのある言葉でいうと「なんとなく学校には行きたくないけど、行ったほうがいいから行くか」と同じです。
反出生主義とは、本当に産まない人のことを言います。つまり自分の考えを大事にし、個人を貫いているのです。
それはどういうことか、私が中学生の時にあった合唱コンクールという行事の例から説明させていただきましょう。
なぜ合唱コンクールがあったのかわかりませんが、歌いたくない人でも強制的に歌わされる、そんな迷惑なイベントでした。
歌いたい人からすれば、歌わないヤツを強制的に歌わせるイベントとも言えます。
参加意欲が高い人には2種類いて、本心から歌いたい人と、周りに適応した結果歌いたいと思い込んでいる人に別れます。
歌えという圧力から逃れるために歌う人は、真人間です。人間ならば一般的な対応でEQ(心の知能指数)が高く賢明と言えます。
マジで歌わない人はクラスに1人か2人くらいいました。
合唱コンクールに参加する人を社会学的な分類に分ける
ここでは高名な社会学者エミール・デュルケームの分類を使います。
自己本位的とは、自分を第一とする考えです。
愛他的(集団本位的)とは、集団を第一とする考えです。
合唱コンクールでいうと、集団に歌わない人は含まれていないのが残酷なところですね。
- 愛他的=歌ったほうがクラスにとって良いので歌う
- 自己本位的=自分が歌うことに納得していないので歌わない
コミュニケーション能力が高い人、もしくは有識者がいれば場もスムーズなのですが、中学生と教師には無理な話でした。
なので毎年荒れていました。
現代人は個人を大事にしすぎている
歌わなければ怒られるのが合唱コンクールですが、素晴らしい点が1つあります。
それは別に歌が上手である必要がないことです。
「歌え」と厚顔無恥に言う人も「もっと上手く歌え」とは言わないのですから、かなり良心的なのです。
歌う目的は集団のためであり優勝ではありません。とりあえずみんなが歌えば練習の時間はスムーズになります。集団としてはそれで十分なのです。
オタクしかやらない対戦ゲームだと「もっと上手にプレイしろ」といったセリフは日常茶飯事ですが、それは全員がやりたいからやっている大前提があるからです。
他の人間に合わせるよりも、個人で技や知識を磨いていったほうが良いではないか。といった自己本位的な考えは合理的なのですが、どうしても息苦しさがあります。
3千年前の人類は個人を大事にはしていなかった
次の説はハッキリと確定しているわけではないので、一説にはこういった考えがあるぐらいの気持ちで読んでください。
3千年前の人類は現在の私たちの呼び方でいえば、統合失調症だったというのです。
この主張の根拠はこうです。
これらの書物に登場する太古の人間たちは終始一貫して文化的・地理的な違いにかかわらず、何かの声を聞き、それに従うように行動しており、それを神の声やミューズの囁きと考えていた。
現代の私たちはこれを幻覚と呼ぶでしょう。
マリアーノ・シグマン TED2016
言葉から、あなたの将来のメンタルヘルスが予測できるとしたら 日本語訳から抜粋
自分の意思で行動しているんだ。といった気持ちが全然なかったという話です。
神の声と言えば自衛隊の試験や免許更新時の視力検査が有名ですね。間違えると「その答えで良いのか?」とか「もっと良く見てください」と言われる現象です。
キリスト教の神は全知(全部知っていること)らしいので、神の声という呼び方は非常に正確だったと。
書いたことのまとめ
子供は大昔は親(集団)の生活を守るために、一昔前は親のフェイス(面子)を守るために産まれてきました。
今は子供には豊かに暮らしてほしい、もっと良い教育を受けさせたいと思うようになったので、子供の数が減ったそうです(5人産んでいた時に比べて少子化した)。
それには子供の数を減らせば良いですよね?
良い教育を受けさせたいと思うようになったのも、社会学的な視点から見れば無意識に社会の圧力を受けているだけで、ただのフェイスを守る行為に過ぎないのですが無粋なので止めて起きましょう。
反出生主義者の人は産まれて来たくなかったけど、親のフェイスを守ったわけです。
ほんの数十年前までは、男が家事や育児をするのは恥という価値観が当たり前でした(これは日本だけじゃないそうです)。令和の価値観ですと人前で同じことを言えば、異常者だと思われます。
子供を産まなくても恥ではない、むしろ子供を産んだほうがフェイスが保たれない。これが反出生主義者の価値観と言えます。
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反出生主義という考え、もしかして反出生主義者がどんどん減っていくだけなのでは?
最後は自分のnoteの記事です。過激なテーマと力を抜いた記事は向こうに書いています。