僕は高校時代にとても充実した毎日というか、大変努力をしてストレスは多いなりに楽しかったし、人生で最も成長した時期があります。
しかし、それが終わったあとに燃え尽きただけではなく、その後の人生全てが色褪せてしまったように感じていました。
最近ようやくその理由がわかったので、ここに書き記しておくことにします。
僕にとって生きていてよかったと思う瞬間は、新たな考え方や知識を身につけたときに、自分の過去や人を許せるようになる時。
最近は毎日幸せですし新たな発見がありますが、今回の考えは特別でしたね。
高校卒業後になぜ急激に人生が色褪せてしまったのか、早速書いていくことにします。
人の価値を比べることの不幸
若い男性の例に漏れず、僕もとりあえず女性と付き合いたいと思っていた時期がありました。
そのために当時は凄く努力をしていました。
できることならなんでもやってみたし、周りの人間がその行為を馬鹿にすることが無粋なことだと思うほど、モテるための工夫をしていました。
当時僕には好きな人がいたんですが、明らかに誰が見ても美人な子が僕を気にいってくれたので、そちらの子と交際したのです。
一緒に外を歩けば誰もが振り返るし、そんな美人と一緒に歩いている自分が誇らしかった。
しかし人は物ではないし、生まれつきの見た目だけで女性の価値が決まるわけではないでしょう?
そんな考え方はつまり、不美人はなんの価値もないと思っているのと同義です。
単純に人として嫌な奴というのはもちろんですが、そのような考え方をすれば、美人以外とは心を通わせようと思わなくなるでしょう。
それは不幸になるには十分な考え方でした。
宝くじが当たった人が不幸になるのと似ています。
毎日ステーキを食べてるのだけど、お金を使い切ったら毎日卵かけご飯になる。
それは、とても苦痛なのだそうです。
人に対して平等に接することの大切さ
世の中には色んな人がいて、誰に対しても分け隔てなく接する人がいます。
僕は身長が高いゆえにプライドも高いので、誰に対しても丁寧に接しようと心がけているんですが、それはつまり自分がされて嫌なことをは人にしない、という考えからもたらされる行動ですよね?
だから僕の場合、人に平等に接するというのはポーズに近い。
でも彼らはそうじゃない、どうみても何か考えとか理念があるタイプじゃない。
なのに平等に接するんですよ、彼らの行動には人の良さが透けている。
素晴らしいことだと感じます。
そのようなタイプの人が人格に優れているとか、寛容であるというわけではないんですよね。
単純に人に順位を付けない優しさがある。
彼らはきっと、誰とでも楽しい時間を過ごせるでしょう。
付き合う相手を選ぶのと、人を拒否するのは違う。
よく人間付き合う相手は選べと言われます。
自分を刺激してくれる人、良い習慣を持っている人、単純に魅力的だと思う人と日々を過ごそうとする姿勢は勇気がいります。
それ故に積極的ですし、素晴らしい。
ただ付き合う相手を選ぶというのと、人を拒否するというのは全然違うことだと感じますね。
というのも人間時間を割いて、定期的に雑談とかをしなければ、親友も容易に知り合いレベルにまで低下してしまうらしいです。
なので親友の数は5人くらいが限度と言われています。
となれば、よっぽど相手が反社会的な犯罪者でもない限り、他人を拒否するという必要はほとんどないということになりませんか?
何もしなければ自然と疎遠になるので。
まとめ
誰かに相対的に高い価値を付けるのであれば、他の人と過ごす時間は卵かけご飯になってしまう。
高校時代の僕は、いつもそのようなことばかり考えていました。
人間いつも自信満々ってわけじゃありません、自信がなくなるときもあります。
普段から人を比べてばかりいると、自分が悪い状態になった時に「誰にも受け入れてもらえないんじゃないか?」と考えてしまいます。
僕がそうでしたからね。
人の価値を気にする人ばかりいたら、みんな生きづらくなる気がしませんか?
僕は今まで自分で自分の首を締めていたんでしょう。
それにしても納豆という食べ物、値段の割りになんであんなに美味しいんでしょうか?
ご飯を噛むのが苦痛なほどに、旨味成分が強すぎる。