
完璧主義は良くないけれど、低い目標より高い目標のほうが望ましい。
私達は、何故かこのように考えてしまいがちです。
人間は社会的な生き物なので、見栄を貼って人からよく思われたいのでしょう。
結論を言うと、高い目標はやる気も達成率も大きく下げます。
ではちょうど良い目標とは、具体的にどれくらいの難易度を指すのでしょうか?
成功率70%以上あると感じられるかどうかが重要
成功のチャンスが70パーセント以上あると本心から信じられるようなゴールないしミニゴールを設定する。
最初から成功が疑わしいと思っていては、的を射抜くチャンスはきわめて低い。
「正直なところチャンスは70パーセント以下だ」という場合は、ゴール自体を調整するほうがいい。
著ショーン・エイカー 選択の法則 199~200Pより引用
客観的な難易度というのもあるけれど、最終的に本人がそう思えるかどうかが大事。
1つ例を挙げましょう、あなたが何かのゲームで序盤の難易度を設定するとします。
最初は、誰でも理解できるし簡単にクリアできるように、親切丁寧に作りますよね?
いきなり何時間も練習したりレベルを上げないと倒せない、そういったボスは配置しないでしょう。
最初から厳しくすれば、大半の人が辞めるのがわかりきっているからです。
なので我々も、自分の目標はそのように設定したほうが良いのです。
挫折しにくくなります。
それにしても、他人に対しては適切な難易度が与えられるのに、自分の場合は厳しすぎるのは何故なのか。
どうして自分の場合は目標が厳しくなるのか
速く成果を出したいのか、自分に厳しいのは美徳だと一般的に言われているのか、理由はたくさん考えられます。
しかしシンプルに最も大きな原因を1つ言えば、欲求が大きすぎるからです。
太りすぎていなければダイエットの効果は十分出ているというのに、必要以上に痩せようとする人の話、聞いたことがあるでしょう?
他人から見れば「十分成果が出ている、凄い!!」と思えても、本人は「なんの成果も出ていない」と思ってしまうことは頻繁にあるのです。
大きすぎる欲求が裏切られ続けて、苦痛が繰り返される現象を、社会学者のエミール・デュルケームはアノミー的と呼びました。
アノミー的な目標設定
他人へ与える目標(課題)と、自分で設定する目標が何故違うのかも、アノミー的観点から見れば納得が行くでしょう。
これらは多すぎても少なすぎてもダメですが、大半の人は驚くほど上手に設定できます。
自分の目標が上手く設定できないのは、その目標を設定した動機が、周りに刺激されたからという理由だからです。
相手の欲求を刺激する広告は、情け容赦がありません。
よく考えると不思議ですよね、男性ならば腹筋は割れていたほうが格好良いと思いますが、割れた腹筋を他人に求めたことは一度もないはずです(少なくとも友人を選ぶ基準にはならない)。
ならば割れている腹筋は過剰な欲求であり、アノミー的ということになりますが、やはり自分が腹筋を鍛えるならば割りたいと思ってしまう。
この異常さ、解決する方法があるのです。
アノミー的の反対は中庸
中庸というのは、これで十分という欲求のラインを自分で決めれる徳のことを言います。
- 過ぎたるは猶及ばざるが如し
- 腹八分目
といった言葉と同じ意味です。
資本主義の世の中では欲求というものは、外部から制限されません(反対に社会主義の北朝鮮では、髪型まで制限される)。
資本主義社会の推奨する人物は、次のような人です。
高学歴で外見が整っており知的で思いやりがある、若い時のクリスマスは恋人と過ごし、将来は結婚していて子供もいて、ずっと高収入である。
資本主義社会は、このような完璧超人を理想とします(完璧超人は今まで1人も見たことがないし、聞いたこともないけど)。
中庸的な目標設定にしよう
目標を設定するのであれば、自分から見ても他人から見ても中庸的のほうがいいでしょう。
ガイアが俺にもっと輝けと囁いているという有名な言葉がありますが、テレビのCMやネットの広告ももっと輝けと囁いています。
改めて考えてみると、特に輝きたい理由はなかったりします。
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私達が普段どのように生活すれば良いのかという内容が書かれています。
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恐ろしいタイトルですが、社会について書かれた本。
アノミーという言葉は、デュルケームが作った言葉です。