
子供の頃から神経質な人は少ない。
大人になるにつれて、段々と神経質になってしまうパターンが多いように思われる。
僕は思春期くらいからずっと神経症的な傾向があり、ずっと克服したいと考えていた。
でも遊んでいる時以外いつも気が散っていた。他の面白いことに飛びつくというわけではなく、単純に気が散りやすいのである。
長い間、計画を立てても集中力がないので実行できないといった状態だった。
なので心の平穏を得たり、神経質さを克服したいとずっと考えていたのだけど、ようやく少し改善したと思うのでその方法について書いていきたい。
デリケートな問題なので、誰にでも同じ方法が有効であるはずがないけれど、役に立つ人もいるかもしれない。
- 子供は精神的なコストを使わないので活動的
- 僕が神経質さを改善した方法
- 大雑把な人の意思決定プロセス
この3つについて書いていきたい。
子供は神経質と正反対
小さい子は基本的に言い張る芸風である人が多い。
難しい話ではなく、検索すればすぐに答えが出るような場合でも言い張るのである。
彼らは明らかに事実情報と違っても、「自分の意見が正しい」と主張して曲げない。
例えば「走れメロスの作者は夏目漱石だ」というような感じだ。
走れメロスの作者は太宰治が正解なのだが、証拠を提示しても認めようとしない。
「それ神経質さと関係があるの?」と思ったかもしれないが、彼らには次のような特徴がある。
- 他人の評価を気にしない
- 失敗を恐れない
- 事実が気にならない
つまり、「これで本当に大丈夫だろうか?」という心の声が全くない。
頭の中は静寂を通り越して、「これが正解に決まっている!」という心の声でいっぱいなのかもしれない。
僕も子供の頃にやってたカードゲームで、ルール上よくわからないところがあったら、全部対戦相手じゃなく自分に有利になるように言い張っていた(こんなヤツと遊んでくれた優しい人達に感謝したい)。
大人になるほど言い張る人は減り、会話が通じやすくなるが、それは頭が良くなったからじゃない。
神経質になっただけだ。
そしたら精神的コストを多く使うようになって、子供の頃のように動けなくなってしまった。
神経質だと日常的に集中力が乱れる
何かするたびに次のようなことを考えていたら、身が持たない。
- このやり方は正しいだろうか?
- このやり方は間違っているだろうか?
- 失敗したらどうなるだろう?
- 成功したらどうなるだろう?
- 自分の人生は今まで良かっただろうか?
- 自分の人生はこの先どうなるだろうか?
人間の身体はそんなに丈夫じゃないし、考え事をしながら目の前のことに集中できる能力もない。
石橋を叩いて渡るべからず
大人が全力で走ったりしないのは、単純に危険だからである。
私たちが目的地に徒歩で移動する時、次の移動の仕方のいずれかになると思う。
- 周りを注意しながら全力で走る
- ちょっと注意しながら軽く走る
- 全く注意せずに歩く
つまり、全力で走るのは危ないので神経質にならざる得ない。
ぶつかった時や転んだ時のダメージが違うからだ。
なので歩くというのが、精神的にも肉体的にも楽だ。
人間は楽なほうに流れるので、走らなくなる。
他にも極端な方法が二つほど考えられる。
注意力を使わずに全力で走る。当然怪我をする。
反対に石橋を叩いて渡るタイプは、歩いているにもかかわらず注意力を使っている。すると日常生活に支障をきたすほど疲れる。
僕も少なからずそういう気質があるのだが、特別危険な仕事の最中でもなければ、全く無駄なことだろう。
神経質さを改善した方法
心の知能指数(Emotional Intelligence Quotient)というのをご存知だろうか?
人間の脳の仕組み的に、物事を理性で取り扱う前に感情で捉えることは避けられない。
大雑把にいうと、感情を味方に付ける能力がEQ力だ。
そしてEQが高い人はもちろん神経質ではない。
EQは次の4つ
- 自己認識スキル
- 自己管理スキル
- 社会的認識スキル
- 人間関係管理スキル
それでは自己認識スキル向上の方法をいくつか紹介したい。
1. 自分の感情を「いい」か「悪いか」で見ない
人間にはスプリッティングと呼ばれる認知の歪み(もしくは認知バイアス)があって、なんでも乱暴に2つに分けてしまうというものがある。
大昔は危険がいっぱいだった。例えば他人を見た時には、敵か味方かで分けるのが最も手っ取り早い。
ゆっくり考えていたら、敵だった場合に取り返しが付かないからだ。
なので自分の感情も、大昔の癖で良いか悪いかで判断してしまう。
なんの理由もなく突然感情が湧くことはないのだが、良いか悪いかで判断してしまうと、その理由がわからなくなる。
そうなるとEQの向上は絶望的になってしまう。
良い悪いというのは、あまりにも主観的な判断だからだ。
なるべく詩人や文豪のように表現していくのが良い。
2. 居心地の悪さに慣れよう
人は自分という人間をしっかり認識しようとすると、なぜか物凄く居心地が悪くなる。
自分は裕福な家庭に生まれておらず特別に頭も良くない、努力ができず怠惰なので特別なことは何1つ成し遂げたことはない(これらはただの、一般的な人間の特徴である)。
などと、自分という人間を正確に捕らえるのは心が痛むからだ。
失敗を受け入れられないだとか、完璧主義というよりも、単純に慣れてるかどうかが大きいように思える。
ちなみに完璧主義を克服するには「中ぐらいを目指す」のが良いそうだ(嫌な気分よさようならという本に載ってた)。
この場合の「中ぐらい」は、居心地の悪い感情が湧いてきても動揺しないこと、となるだろうか。
ちなみに、スポーツの世界では居心地の良さを感じる領域をコンフォートゾーンと呼び、コンフォートゾーンに留まっていると上達しないと言われている。
居心地の悪さを避けると変化しない。凄く当たり前の話だ。
3. 感情のボタンが押される瞬間を知る
人間は誰しも、人によって「腹が立つポイント」が全然違うことを知っているだろう。
自分は○○の時に○○の感情を抱きやすいと知っていれば、凄く対処がしやすくなる。
やり方は簡単で、感情のボタンが押された時にメモを取るだけ。
自分の感情が押されるボタンの少なさに驚くはずだ。
大雑把な人はこうやって意思決定をしている
先程、あなたの神経質さを改善すると思われる方法をいくつか紹介した。
大雑把な人はそれを見てどうするかというと、あまり時間をかけず、なんとなく良いと思われるものを1つだけ実行する。
なぜそうなるのか?
理由は次の2つ
- 全てを比較検討するのは時間がかかりすぎる
- 全てを比較検討するのは精神的コストがかかりすぎる
意思決定をする際の目標は
- 良い決定をすること
- さっさと決定すること
の2つだからだ。
その結果、まあまあ良いと思われるものを1つ実行することになるという仕組みだ。
この方法ならば決定する精神的なコストを抑えながら、はやく決定できる。
特に、失敗してもリスクがないことならば、ほとんど検討しなくても問題はあるまい。
例えば、感情のボタンが押された時にメモを取る行為に恐ろしいリスクが潜んでいるとは考えにくい、ならば深く考えずにやってみれば良いのである。
経済学者のハーバート・サイモンはこの現象を、サティスファイシングと名付けた(Satisficing 英語のWikipediaに飛ぶ)。
神経質な人はこうやって意思決定をしている
一方神経質な人は、時間はともかく、精神的なコストを使いすぎる。
時間と精神的コスト両方を惜しまない完璧主義者に比べれば健康的だが、普段から疲れているのであれば問題だ。
終わりに
世の中は常に動いているので、完璧な意思決定というのはできないだろう。
それに今は大昔や子供の頃と違って、知り合いとコミュニケーションを取る時に必ずしも面と向かっているわけではない。
なので相手を怒らせてしまっても、トラブルが起きる可能性はずっと少なくなった。
原始時代だったら、自分より戦闘が上手な人を怒らせた瞬間、人生が終わってしまうことも少なくなかった。
今はそんなに神経質にならなくてもいい。
細かいことは気にせずに、これで良いかなという決定をさっさとして、もっと活動的になってみてもいいだろう。
最初からうまくやろうとするのが良くない。
ゲームを攻略するように、とりあえずやってみて、ダメなら少しだけ変えてまたやってみる。
何事もこのようにプレイしたい。
彼らは年の割りに話し方がしっかりしている人が多かった気がする(いいヤツか悪いヤツかは別な話)。