「経験の自己と記憶の自己」という話を最近聞きました。
経験の自己というのは、いま楽しいという幸福感。
記憶の自己というのは、苦しかったけど振り返ってみると「よかった」って感じられる幸福感。
それで、振り返った時にどちらが継続して幸福を感じられるかというのは、記憶の自己であるという話です。
つまり、「何もしないよりは大変なことをしているほうが良い」ってことです。
日本には、若い時の苦労は買ってでもせよということわざがありますが、若くなくても苦労し続けよが正解。
毎日何もないことが幸せというのは嘘だったんだね
よく歌の歌詞とかで平穏無事なのが幸せとか言うけど、戦争とか知人の不幸でもない限りは平穏無事というのはたいして幸せな状態でもないようだ。
これで十分の範囲にとどまっていると、一度身につけたスキルは落ちていく。
と、練習の鉄則でも言われてるし、何もないというのは良くないこと。
確かに努力した時の記憶を振り返ると幸せ
僕の人生で最も努力したのは、高校時代にモテようと練習した時ですね。
身体を鍛えたり、女性との接し方に慣れようとしたり、とにかく毎日ずっと自分の能力以上のことをしていました。
不思議なものでそうやって努力をしていると、腹の立つことがあっても随分我慢できるものです。
こうして当時のことを思い出して少し書くだけで、なんだか元気になってきました。(当時は実際に燃え尽き症候群になった)
年寄りとかおっさんが大変な時のことを話すのは、それによって幸福感が得られるからなんでしょう。
しかし、恥ずかしながら僕が「血を流すほどに努力した!!」と、人に胸を張って言えるのはその1つだけなので、このままでは高確率で一生同じ話をする人間になってしまう。
超頑張ったことを自慢できるような生活をするのが良い
僕はあまり自慢しないタイプなんですが、10代の時は2時間くらいしか寝なかった日はずっと「昨日2時間しか寝てないわー、2時間しか寝てないからつれーわー」って言っていた気がします。
2時間しか寝てないことを人に話すのが楽しかったんだろう。
もちろんそんなヤツいてもウザいだけなので、周囲の反応は冷めたものだった……
毎日努力をする、毎日を練習で満たす、そういった生き方が幸福感を得られる。
振り返ってみると、ここ数年はそういった人に自慢できる苦労話は何もない、無味乾燥な生き方をしてしまっている。
今日からは、もっと自分を燃やしていきたい。
終わりに
練習の鉄則の1つに、「自分の弱点を特定し、それを克服するための課題を徹底的に繰り返す」というのがあります。
自分のできていない部分というのは山ほどあるので、まずはそこから燃え尽きるような人生を再開してみようかな。